親としてのキモチ

また、ムスコと同じ年齢の子供の命が父親によって奪われました。

また、ムスコと同じ年齢の子供の命が親によって奪われました。

 

■<傷害致死>5歳の長男殴り死なす 容疑の父を逮捕…警視庁

http://mainichi.jp/select/news/20130907k0000m040138000c.html

 

自分とは関係のない世界

ムスコが生まれる前までは、幼児虐待のニュースを見ても、酷い事をする人がいるもんだな、とどこか他人事のように思っていました。そんな世界もあるんだなーという程度の認識でしかない。

ところが、自分にムスコが生まれてからというもの、そういった悲惨な虐待による死亡のニュースを見る度に、やり切れない悲しさと、他人事ではない恐怖を感じるようになりました。その感情と共に、一日中、その事件が頭にこびり付いてしまいます。

 

やり切れない悲しさ

やり切れない悲しさは、たぶん、虐待を受ける子供の映像を自分のムスコに投影して、その凄惨な現場を想像してしまうから。暴力を受けている時に発したであろう「ゴメンなさい」という声を、ムスコの声と重ねてしまうと、加害者であるその親に殺意に近い怒りとやり切れない悲しさを感じてしまいます。

年齢が近い子供であればあるほど、その思いは強くなります。

 

他人事ではない恐怖

そして、他人事ではない恐怖は、自分が同じような心理状態に陥らないとは言い切れないという恐怖感から。私も、ムスコが言う事を聞かない時、イライラとしてしまって、手を上げそうになる事があります。
叱っても叱っても、堂々巡りのように、駄々をこねて、先に進まないような状況は、誰でも経験があると思います。
そういう時に、手を挙げないで自制をできるのは、嫁の存在が大きいと思いますし、溜まった育児ストレスをインターネットで情報発信して、他人に笑ってもらって解消したりできているからかと。

 

父親としての器

このブログでも親としての悩みを書いているように、自分は大丈夫とは言い切れる程、父親としての器が大きいとも思いませんし、たぶん、チャラチャラした若者に、ちょっと毛が生えたぐらいでしかありません。

だから、こういった虐待のニュースを見る度にできる事といえば、許せないという気持ちと、同じぐらいの強さで自分を省みる事ぐらいかと。

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